2004/10/02  綺麗な布川のヤマメ

一瞬、ドキリとした。
深場から這い上がるために岩に手をかけた瞬間、指先の傍らにいるスズメバチに気づいた。
彼女は僕に対して攻撃を仕掛ける風でもなく、ただ岩肌をうろついている。こんなときは決まって獲物を狙っているのだ。以前、川原に生えた草をじっと見据えるスズメバチに出会ったことがある。しばらく周辺をうろついていたが、突然、草の中に飛び込んだと思ったら大きなクモをくわえて出てきた。どうやってクモの存在を知ったのかは謎だが、獲物を捕らえるすぐれた能力に閉口したものである。
先行しているYellow氏がこの岩を登ったとき、おそらくハチはいなかったのだろう。しかし、優秀な釣り人ほど、川の中の魚影に神経を集中する傾向がある。はたして・・・彼は強運の持ち主かも知れない。




いずれにしてもこの場から立ち去っていただかないと先に進めない。仕方がないので、手のひらで水をすくってスズメバチにかけた。僕の計画では「ハチは川に落ちて流れていく」はずだった。しかし意外にも彼女は岩にしがみつき、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
あわてた僕は必至に水をかけ続ける。羽は濡れているものの、いつ飛び立って僕に向かってくるとも限らない。「えい、えい、こいつめ!」何度も何度も水をかける。しかしハチも然る者、簡単には流されない。数センチ落ちては、数センチ登ってくる。何十回も繰り返し水をかけると、やがて彼女は力尽き、布川の流れに呑まれて行った。




苦労の末に追いつくと、Yellow氏は小さく身をかがめ、堰堤の右端を探っていた。獲物を狙うスズメバチのようにジッと水面の毛鉤を見つめている。時折、リズミカルに竿を振るだけで、ほとんど動かない。その間、僕はボロボロになったタックルを修理していた。
「わっ!」滝の音を割ってYellow氏の叫び声が聞こえた。彼の指さす方向を見ると2頭の鹿が泳いでいる。Yellow氏も鹿も、お互いの存在に気づかなかったらしい。あわてたのはYellow氏だけではなく、鹿も同じだった。深い滝つぼから顔だけを出して右往左往している。突然の出来事にパニックになったらしく、ただ泳ぎ回るばかり。やがて彼らは崖を登って逃げて行った。散々動物が泳ぎまわったそんな場所で渓流魚が釣れるわけもなく、我々もトボトボと山道を去ったのである。



今日の布川は渋い。
良型のイワナがいつも釣れる場所がある。「Yellowさん、絶対釣れますからね」僕が言うと「てんからクラブの連中もね、絶対釣れるってよく言うんだよね。でもね、そうとも限らないんだなぁ・・」なるほど、「たぶん、釣れますよ」「釣れるかも知れません」「いや、釣れるといいなぁ」。
布川下流から2番目の堰堤。過去、数々のドラマが生まれた場所である。岩の窪み、水の淀み、岩肌と流れの交差する場所。すべて丁寧に探ったが、毛鉤とミノーのどちらにも「山の女神」は微笑まなかった。



結局、上流まで釣り上がり、小さなヤマメを2尾。1尾はひとつ目の堰堤プールで食ってくれた。2尾目はその上の小さな流れ、対岸ギリギリに張り付いていた小ヤマメだが、なかなかいい面構えをしていた。そしてイワナも2尾。プルプルという可愛い魚信の後、鉛筆のようなチビが5センチ以上もあるミノーをくわえて上がってきた。2尾目には、やっと塩焼きサイズが釣れたが元気がない。「ぬたぁ〜」という感じで上がってきた。


「来年は上流の養魚場も閉鎖になるらしいよ」Yellow氏は淋しそうに語る。ここ布川は、東丹沢で唯一、安定して渓流魚が釣れる川だった。それもこれも上流から魚が流れてきてこそ楽しめたのだ。来シーズンからは初心者にとって辛い川になるかも知れない。キャッチアンド塩焼き派の僕が、毎回リリースしてしまうほど東丹沢の魚は少ない。今日遭遇したスズメバチや鹿、その他たくさんの生き物が「まじめに」生息している。その中で遊んでいる我々には、せめて最低限の守るべきルールがあると感じるのである。